未来人のための・宇宙の神学

猫の神学は終了しました

描画された世界

小学2年生だったある日、その日は担任不在で2時間近くが自由時間という型破りのスケジュールで進行していた。
学友たちはドタバタと動き回っていてうるさかったのだが、私は備品棚に並ぶ小学生向けの雑誌を立ったまま読んでいた。

 

その中には「ロップくん」と言うほぼ「鉄腕アトム」同様のロボット漫画が掲載されていて、この手塚作品も空を飛び海を潜る無敵のキャラクターがその強さと正義感で悪を打ち負かしていくというストーリー展開である。
そして絵の美しさ、見たこともない宇宙船や巨大な機械、考えたこともない出来事や痛快な場面展開に私は夢中にさせられていた事を思い出す。

自宅に漫画雑誌は一切なく、読めるのはせいぜい10ページに1枚あるかないかの挿絵入りの昔話ぐらいであった。
キャラクターは武士や僧侶、あるいは鬼や妖怪、犬やタヌキである。
手塚も「どろろと百鬼丸」でこうした異世界を描きはしたが、ロボット漫画で描かれた未来社会のイメージに私は圧倒され熱狂的な支持者になっていた。

この時読んでいた漫画は他にもあり、馬場のぼるの「たんぽぽじいさん」なども気に入っていて、しばらく棚にもたれて面白く読んでいたものである。
・・・と、急にまわりの気配が完全に変わってしまい、あの人物、世界監視者(仮)がやって来られた事が察知された。
もちろんその当時はまだ名前など知らないので、「目には見えない怖い人」ぐらいの感覚である。

「ふぅ~ん、こんな人もいるのか・・・」
彼は私が読んでいる漫画を覗き込んだのだろう、そういってこの作家に少し関心したようであった。彼は明かに漫画を嫌っていたので、私は誇らしくうれしい気分になってしまったものである。

彼が感心した漫画はもう一つだけあって、少女雑誌に連載されていた「コリー犬と飼い主の子供(タイトル不明)」との複雑なストーリー展開を描いたものであった。
(ひょっとするとこの作家オリジナルの作品ではなかったかも知れない。何しろ当時はまだ版権意識が皆無とも言える状態だったので、「ローマの休日」などもこの当時の少女雑誌で漫画化されていて、私もテレビ放映される以前に読んで知っていたぐらいである)

ほぼ1ページ分を使ってそれまではぐれていたコリー犬と元の飼い主の再会場面が描かれていたのだが、犬はどんなに目の前の主人が恋しくても今は現在の飼い主に従うことを心に決める場面である。
世界監視者は覗き込みながら、「こんな漫画ばかりなのならば良いのだがな・・・」などと嘆息されていたように記憶している。

私が漫画雑誌を買ってもらっている子供の家に上がり込んで長時間を過ごすことは珍しくはなかった。
時には私だけが一人で居たこともあったのだが、どこでも叱られるようなことはなかった。
しかしあるのは少女雑誌ばかりと言う家もあり、おかげでその家庭では「リボンの騎士」など女性誌特有のキャラクターを読むことになる。

さて、ラジニーシはピラミッド建設に500年の時を要したと語っている。
つまり生き残った超人の第一世代から六世代七世代と何代にも渡って超人達の転生は続いた事になる。
そうしなければあの何トンもの石を念動力で吊り上げ運搬することは不可能だからである。
もちろん彼らは自身の肉体を持ち上げ、自由に飛翔することさえ出来ただろう、それが超人というものだからである。

だがそんな人々を歴史記録から抹殺しなければ今日の科学は作り出せなかった事は容易に分かる事である。
もし実験室でタヌキが人間に化けてしまうのが記録され周知されたらどうなるか、世間の知的欲求は現代科学に対して否定的なものとなってしまっただろう。

守護霊でも地縛霊でも、タヌキでもキツネでも、人体再生プログラムにアクセスしてしまえば、衣服を装着した状態でこの物的世界に出現できるのである。
霊力が強いとこのプログラムが動き出してしまうが、それは現代科学の目指している存在認識とは別次元にものであるために、何としても防がなければならない。

石屋の仕組みには、こうした事項に対するシャンバラ評議会での申し合わせも含まれており、簡単に言えば超人を表社会に出現させてはならない、強力な霊力を持った動物魂をこの近代社会に転生させてはならない、守護霊、地縛霊はなおさら言うまでもないと、言った協力事項である。
(この件は私の推理である。)

ラジニーシによれば守護霊が物化(肉体化)できるのは瞑想状態に入った特定個人が脱魂し、肉体が浮遊状態になるのを防ぐために現れる時だけであるらしい。

肉体と魂が分離してしまうと、必ず肉体も重力状態が失われてしまうため、その個人の肉体を守護する霊は身体を抑え込む必要から出現することだけが許されている。

私自身は瞑想による幽体離脱を一度も経験していないのだが、どうやら睡眠中には幾度も幽体離脱をしていたようである。守護霊が私の体を引き留めているタイミングを間違えてしまい、離すのが早すぎたせいで寝覚めると体が天井にぶつかっていた事が一度だけあったためそのように推測している訳である。

物化とは三次元描画の事である。
意念がこの描画プロセスに介入することで自身がいかようにも、いかなる場所にも、いかなる姿でも存在化するのである。
霊的進化プロセスでは転生による地上出現以外を認めていないので、こうした漫画チックな物化プロセスを現代社会では嘲笑の対象でしかない。

だが「現れるもの」は、意識が「見ようとしている」からこそ現れるのである。