未来人のための・宇宙の神学

猫の神学は終了しました

「567」暗号 3

・・・話の内容からすぐに彼が生身の人間ではないことに気づきました。
正確な記憶はないのですが、「もしもし・・・、ここは神聖な場所ですよ。そのような汚らわし行為をするべき場所ではりません」。

 

声の質からして30代半ばの男性の声であり、意味としては大体そのような内容であったと思う。
私は失敗だったとすぐに気が付いた。
あまり目立たないのだが、この山の戴きには非常に小さな祠があったのである。
林の中に漠然と鎮座しているので、よほどのことがないと眼には入って来ないのであった。

失念していたし、今まで一度も拝礼したことがないので、祠を守る者としては私に対して面白くないと感じていただろうし、そこへこうした不浄な行為をやっているものだから、叱責自体がしつこいものになったようである。

返答に詰まった私は振り向いてから謝罪すればいいものを、「いや、こうして草木に栄養を与えるのも悪くはないでしょう」などと軽口を利いてしまったのである。

「みなさん、何時もそうおっしゃいます・・・。」

彼はもちろん眼には見えない存在である。霊界から役目のために降りてきていて、幽界からこちらを見ている。
その彼が話している言葉は音声ではなくテレパシーのはずである。
(実を言うと私はこの2つを区別して聞き分けることが出来ない、ただ状況で判別しているだけである)

私は少し動転してしまった。
誰もかれもが幽界の守護者と口を聞くことが出来るのならばこの世界は混乱してしまうだろう。
彼が事実をそのまま語っているのなら、おそらくどの人間も機会さえあれば幽界の人間と違和感なく平然と話をしているのは真実おきている事なのだろうと推測される。

ただ多くの人々はそうした出来事を記憶のうちにとどめておくことが出来ない、そう理解するしかない、と私は思った。

あるいはこう理解すべきなのだろうか。
いま現在の意識、肉体を動かしているこの「私」を<自我(エゴ)ー1>とすると、テレパシーを使って対話している「私」は<自我ー2>であり、通常<自我ー1>は<自我ー2>の事を意識化できない。
しかし主体である<自我ー2>は無言のまま<自我ー1>を動かして活動しており、<自我ー1>(現実世界の私)は<自我ー2>(あちらの世界の私)の受信装置(作動端末)に過ぎないのではないか、と言うものであった。

私がかって復讐のために生まれてきた子供と話をした時、私たちはお互いにあちらの世界の私である<自我ー2>が対話をしていたのだと思う。

私の場合、状況によって自分が<自我ー2>に切り替わって話していることは理解できるのだが、そして<自我ー1>の生身の私はその時の記憶を引き続き持ち続けて生きているのだが、大多数の人々はほとんどその体験を思い出すことが出来ないのではないかと考えるようになった。

何故こんな事を言うのかと言うと、神経生理学者ベンジャミン・リベによる古典的な心理実験(1970年代)において自由意志が否定され、現在もその後追い実験が繰り返されているらしく、人間が自由を持たないことが証明されたと考えられているからである。

だが、脳も、「リアルな私」も、<自我ー2>の作動装置・端末表現であるならば人間に自由意志がない、などと騒ぐ必要はなくなるだろうという事である。

YouTubeで、「脳と自由意志」や「人間に自由意志はあるのか?」で検索するとベンジャミン・リベや現在の実験について閲覧できます。