未来人のための・宇宙の神学

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南朝の岩戸隠れ

かなり昔、東京板橋駅近くの小さな書店に入った。
ふと奥の列に平積みの書籍があって何気なく手に取りパラパラとめくっていたのだが、ページ上段に山縣有朋から西園寺公望あての書簡が掲載されていた。

読むととんでもない内容であった。

後醍醐天皇の直系子孫(確か第三王子の子供)は九州に逃れ長らく匿われていた。
(歴史文脈上では島津家なのだが、失念)

 

②現在のお上(明治天皇)はこの南朝正系であり、昔の政府高官はみなこの事実を知っていたが、今では我々二人きりになってしまった、云々。

(本は装丁の立派な私家版で西園寺近親者の発行だったと記憶する。購入も考えたのだが3500円前後と高価なので断念した。)

この書簡の内容を信じるなら、明治政府とは宮中クーデター(北朝打倒)政権なのである。
幕末の将軍慶喜南朝正統論者、徳川光圀の末裔である。
そしてこの水戸学は尊王攘夷思想としてこの革命を実行に移し、戦後までの日本社会の根本精神となる教育勅語として展開されることになる。
水戸藩徳川慶喜にとって九州(島津家)に隠遁した吉野朝天皇家は復古されるべき主上であったからこそ、大政奉還江戸城無血開城がなしえたのであろう。
兵力差から言って、幕府が諸大名全軍勢を差し向ければ島津長州二藩に敗北することなどありえない。

そして明治に入り、何故、後醍醐天皇に尽くした楠木正成のみが功臣忠臣として賞揚され、正一位を追贈されたのか、その謎が解けることになる。

しかしこの南朝政権は決してその事実を公表しなかったし、北朝に対して剣を向けた形跡もない。
(もう一人の明治天皇がどうなったかまではこの書簡には記載されていなかった)
戊辰戦争が国内和合を図る終結を見たように、南朝政権運営上あえて無益な混乱を望まなかったのだろう。

南朝の九州隠遁は天照大御神の岩戸隠れを模したものなのかもしれない。
そうしておけば、例え北朝の血が足利将軍家によって乗っ取られていたとしても、岩戸開きの時まで身を守り、血脈を絶やさことが出来るからである。